前回の話の続き
その後わしは職業もバイクを使ったものに転職した。
バイク便だ。
1983年当時バイク便の需要が特に都内で高まりバイク便の会社が乱立していた。今でもバイク便の大手老舗である、国内で初めてバイク便事業を手がける事業者として世田谷区で創業された「ソクハイ」が「日本即配」として創業したのは1982年9月のこと。
わしは千代田区にある「ロード運輸」という小さい運送会社が新規で起こしたバイク便「ロケット便」に入社、当初はバイク6台からのスタートだった。(すべて社用車のCBX400F!)
バイクの機動力を生かし、都内30分以内配達を謳い営業した。当時定期の仕事で千代田区の神保町の「アイワ(aiwa)」(←懐かしい。今はもうなくなった。と思ってたらなんか復活してるのね)から栃木県の日光にあるアイワの工場に電子部品を運ぶ仕事があって仲間内で往復の最速タイムを競い合った。千代田区神保町から日光の工場までは約130Km。その当時東北自動車道は川口JCT – 浦和IC間開通しておらず首都高速川口線をいったん降りて浦和から東北自動車道に乗っていた。往復にして260kmを確かドアtoドアで3時間30分を切るタイムが出ていたと思う。(どんだけ飛ばしてたか今思えば怖い^^)

道中はもちろんフルスロットル。渋滞の首都高速の二車線のど真ん中をアクセルをふかし爆音を立て猛スピードで抜けていく。車の隙間を走り抜ける際、車の窓を開けてタバコを出している手が「すっ」「すっ」と次々に引っ込む光景が面白かった
こんな無茶をやっていて免許が汚れないわけもなく
・速度超過違反 0km以上25km未満 2点
・指定場所一時不停止違反 2点
と続けざまに違反してあとなんかやったら免許停止でやばいと思っていたけれどとどめを刺す違反を関越自動車道でしてしまうのであった。
その日は仕事も忙しく何件も案件を抱えていて急いでいた東京から新潟まで運ぶ仕事があり関越自動車道にのりフルスロットルで走っていたオービスやネズミ捕りポイントは把握していたつもりだったがチェックしていないところでネズミ捕りにひっかかってしまった。

なんと「65Km速度超過」(80Km制限区間を145Kmで走行)終わった・・・
65Km速度超過は12点これで累計16点となり1年間の免許取り消しが確定してしまった。
交通違反も一般道で30km以上、高速道路であれば40km以上の速度超過した場合「非反則行為」になり赤切符が切られ刑事手続きとなる。何週間か後に違反した現場(わしの場合関越自動車道の花園インター)に呼び出され、警察・検察官による取り調べ、現場検証(この地点でお前はこのスピードでここを通過したとか)関係者への事情聴取が行われる。
わしはこの時18才。未成年の場合は家庭裁判所への送致となり調査官または少年鑑別所による調査が実施され1年間の保護観察処分が決定する。そのあと検察官による不起訴の判断があり略式裁判(略式命令)で10万円の罰金刑が決定した。その後半年くらいは保護士のところに定期的に顔をお出さなければならず面倒だった記憶がある。
免許を取り消されバイク便の仕事も出来なくなったのでバイクに別れを告げ他の仕事に就いた。
中型二輪免許再取得
さて中型二輪免許を失ったわしはパン屋の仕事をしながら、その2年後、教習所に通い普通自動車免許を取得した。それからしばらくは、バイクを離れた生活を送っていたが1年後くらいに一念発起、中型自動二輪免許を再び教習所に通い取得した。
この時学ぶことの楽しさを味わい中卒だったわしは働きながら夜間高校(定時制高校)に通うことを決心21才の冬であった。(卒業したら大学に行くことも視野に入れていた)
高校を受験し合格(受験といっても定時制はごくごく簡単な試験だったが)春より朝は16時まで働き夜間高校に通い始めた。定時制高校といってもほぼ現役の7歳も歳下の子たちがクラスメイトでなかなか辛い思いをした。この時のクラスの担任が嫌な奴でそれでなくとも歳のことを気にしているのに事あるごとにクラスメイトの前で「お前はいい年をして・・」と「おじさん」とか散々嫌なことをされて心が折れた。この担任は体育の教師だったが体育の授業の時、本気で筋トレやランニングをやらされ皆くたくたになり(定時制は朝労働してから高校に来て翌日も朝から労働するということを判っていてこの仕打ち)皆この教師が嫌いだった、はじめは高校をまじめに皆勤出席で優秀な成績で出て大学受験するつもりだったがこの担任の授業に出たくなくなり、出席日数ぎりぎりで進級する有様になっていた。
わしは軽音部に入っていて(ギター&ボーカル)2年のときに一学年下で軽音部に入って来た女の子と親しくなり、その後付き合い同棲する事になった。その娘が今も連れ添うわしの女房だ^^
クラスの子たちとも仲良くなり定時制2年のころバイクに乗る子たちとツーリングチームを作って一緒にツーリングして楽しんだ。
この頃に購入したのがHONDA CB-1だ.

1989年、2ストロークではヤマハTZR、ホンダNSR、スズキ・RGΓ、4ストロークではヤマハFZR、スズキGSX-R、ホンダCBR、ホンダVFR、カワサキZXRなどのエアロカウルで覆われたレーサーレプリカ全盛期、カウルなしのスタイルを前面に押して登場した。元祖ネイキッド「ネイキッド」という言葉、分類が使われ始めたのはこのCB-1が登場してからではないだろうか。

同時期発売されたより懐古調スタイルなカワサキゼファーに人気は奪われあまり売れなかったらしいが。「マッスルチューブ」フレームかっこよいね。
その後定時制高校を4年間何とか通い無事卒業。大学進学は例の教師のせいもあって出席日数ぎりぎりの卒業なので断念し就職した。
就職してからはバイクに乗る機会も少なくなり数年後にはCB-1も手放しそれ以来バイクにはまたがっていない。(30年以上になる・・・)
そして今、バイクに乗りたくなった。突然に。
次回は購入バイク選定のお話。
じゃあ明日もやってこやってこ。
(let’s do it tomorrow too)
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